土嚢

お題その2「知らない人と鍋を囲む」


 
【土嚢】
 
離れに続く長い廊下を足音ひとつ立てずに歩く仲居に女は軽快な足どりで続き、おれは少し後ろからその背中を追いかける。
個室に通されると女は慣れた様子で、おれの月収を軽く越えそうな組木細工の座椅子に掛けた。座卓を挟んでその正面に腰を下ろす。

卓の上には両側に取手のついた大きな鉄鍋が据えられている。
上司の接待話に聞いたことがあるが、まさか自分がこんな老舗の料亭をプライベートで使うことになるとは、先週まで想像もしていなかった。

現実感がまるでない。だからかえって緊張しなかった。特に喋る必要を感じなかったので、黙ったままあぐらを組んで座っていた。女も黙ったまま両手を軽く握るようにして自分の爪を眺めている。

中座していた仲居が戻ってきて、いい具合寸前の河豚のヒレの乗った七輪と白子の小鉢、それに鉄瓶を手際良く並べていった。
ヒレが目の前で湯呑みに入り、鉄瓶から熱燗が注がれる。湯気で眼鏡が一瞬曇ったが、湯呑みに蓋がされるとじきに消えた。そのあいだも仲居は一言も喋らない。口がきけないんだろうか?
深々と頭を下げた仲居がやはり音を立てずに障子を閉めた瞬間、女は卓の上に両手をつくと大きく身を乗り出しておれの右頬のすぐ横でささやくように言った。
あなたがうまれてからいままでにしたなかでいちばんわるいことについておしえて
 
「え?」
 
女の髪から、表を歩いていたときには気付かなかったくらいにかすかな、だけど信じられないほど良い匂いがする。
心臓が二倍の速さで脈打ち、身体の右半分に鳥肌が立つ。女はゆっくりと繰り返す。
あなたがこれまでの人生で、最も他人に害を与えた経験について、話して欲しいんです。差し支えなければ。‪
それだけ言うと、女は体を引いて椅子に座り直しコホンとひとつ咳払いをした。

一瞬混乱したが、女がおれをおちょくっているのではないということは、なんとなく伝わってきた。これは単純に切実で純粋な問いかけだった。たぶん初対面の相手と関係をもつときの個人的な儀式みたいなものなんだろう。
そんなにたくさんの女を知っているわけではないけど、多かれ少なかれ日常とそういう行為の間にスイッチを必要とする女は珍しくないように思う。
長いあいだ黙ったままでいると、女はゆっくりと顔を上げて不安そうに眉根を寄せた。
今まで生きてきた三十四年間で、他人にここまで真剣に頼みごとをされた経験はなかった。
だからおれはずいぶん長い間迷ったあと仕方なく口を開いた。
 
「土嚢...ってあるじゃないですか、土のう」
 
冷房が効き過ぎているような気がする。蓋を取ったひれ酒の湯呑みを両手で包み込むようにして持った。
茶碗の中に沈んだ、山吹色の切れ端を見下ろしながら次の言葉を考える。顔を上げなくても上唇と下唇の隙間をじっと見つめられているのがわかる。
 
「よく工事現場とかにあるやつ。自分昔あれが異常に好きで。それで...」
 
今まで誰にもしなかった、できなかった話をおれは今になって口にしようとしている。それもお互いに本名も知らない得体の知れない相手に。だけど知らない相手だからこそできる話だという気もした。
 
「続けてください」
 
まるで笑っているような、うわずった声で女は促す。
 


*
 
ちょうど一週間前、本社での業績報告会のあと先輩に喫煙所に呼び出された。
先輩が調達に異動になってから一度飲みに行ったきりだから二ヶ月ぶりだ。それぞれの勤務場所が別オフィスということもあって、今までみたいに気軽につるむ機会も減ってしまった。
先々週、先輩のほうから誘いがあったけど予定が合わず流れてしまっていた。

「おー」
「すいません、こないだ」
「いや気にせんで、タイミングがね」

先輩はおれの謝罪を手で制してラッキーストライクに火をつける。銘柄変えたのか、いい歳して。
おれも自分の煙草に火をつける。お互いにしばらく黙ったまま煙を吸い込んで、吐き出した。先輩が口を開く。

「俺結婚するやん、来月。あ籍はもう入れたけど」
「あ、おめでとうございます」
「おー」

前々から聞いていた話だけど、おれはもう一度祝いの言葉を告げた。先輩は続ける。

「それでね、お前に幸せおすそ分けしてやろうと思うてね」
「いらんすわ...」
「おほほ、そう言わんと受け取って」

先輩は目尻にクシャクシャに皺を寄せて笑いながら、ジャケットの内ポケットからカードケースを取り出した。そこから一枚のカードを選んでおれの手のひらに乗せる。

「なんすかこれ」
「秘密クラブ」
「は?」
「秘密クラブの会員証」

カードは深緑色の金属で出来ていて見た目より重く、片面に金字で都内の電話番号が刻印されていた。それだけだった。

「うさんくせえなあ...なんのクラブなんすか」
「鍋をね、食べる。女とね」
「それだけ?」
「それだけなわけあるかよ」

そこね独身限定なんよ理由はわからんけど。
俺もおととしかな?再婚するお客さんから譲ってもらって、一回しか使ってない。

「あんまよくなかったんですか?」
「いやよかったよ。めちゃくちゃよかった。ただ高っかい」
「...十万とか?」
「込み込みで三十万」
「三十万?!」

おれは大声を出してしまった。一発三十万......

「でもそのぶんムチャクチャいい思いできるからね」

先輩は下品な目つきでニヤッと笑う。

「お前もたまにはいい飯食っていい女抱いたらいいよ...残念ながら俺のおごりやないけど」

先輩は触れないでいてくれたけどつい先月、四年付き合った彼女を大学生に寝取られたばかりのおれの精神状態は腐り切っていた。
彼女との結婚資金として貯めていた全財産を使って、ひと月くらい海外にでも行って豪遊してこようかと思っていたくらいだ。非日常の代償としての三十万、だんだん破格に思えてきた。

「まあ気が向かんかったら返してよ。モノがモノやし、誰にでも譲っていいってわけやないから」

先輩はそう言うとまだ半分以上残った煙草を灰皿でもみ消しておれの肩を二度強く叩いた。

 

その日の夜おれは家に帰るとすぐにカードの番号に電話を掛けてみた。
無言の電話口に向かって先輩に教わったとてつもなく長いパスコードを二度繰り返すと、いかにもガタイのよさそうな低い声質の男が電話口でシステムの説明をしてくれた。
金は先払いのカード決済。内訳は高級料亭での二人ぶんの食事と酒代、その後のホテル代、車代、それにサービス料金。相場がわからないので頷くしかない。おれは一週間後の金曜に予約を入れた。

電話を切ったあと店のホームページを探してみたけど見つからなかった。当たり前だ、カードには店の名前すらない。

 

*

当日は十九時に三越前で待ち合わせた。相手はすぐに見つかった。
色が白くて小柄で、肩につくかつかないかの長さの髪。拍子抜けするほどあっさりした顔立ちの女。えんじ色のワンピースを着てこげ茶色のカーディガンを肩にかけていた。事前に聞いていた通りの服装だ。

正直なところ、おれはかなりがっかりしてしまっていた。
合コンかなにかで出会っていたら普通に好きなタイプだったと思う。だけど「美人」と呼ぶにはなにかが少しずつ足りなかった。それにどう見てもおれと同年代、三十半ばに見える。
逃げた彼女への当てつけに、彼女とは食ったことのないようなうまい飯を食って、彼女よりずっと若くて滅茶苦茶に良い女を抱きたかった。そのための三十万だった。
そんな惨めで貧乏臭い気持ちをなるべく表情に出さないようにして女に近づいた。
おれは受付の男に待ち合わせ用に指定されたネクタイを締めている。普段なら絶対に選ばない、趣味の悪い柄の緑色のネクタイ。
女がおれに気づいてこちらに小走りで駆け寄る。
 
「はじめまして。なぎさです」
「あ、坂本です」
 
おれはあらかじめ電話で告げていた偽名を名乗った。

 

当たり障りのない話をしながら歩くうちに、不思議なほどリラックスしてきた。なんだかんだ言って、好みの女と肩を並べて銀座を歩くのは良い気分だった。七月のぬるい風が散髪したての耳の後ろを撫でる。
少なくとも今夜は一人で晩飯を食わずに済む、そのことが自分でも意外なほど嬉しかった。
付き合っていた彼女とは長かったからすっかり忘れかけていたけど「そういう予感」のする女と晩飯を食うというのはこの世でもっとも楽しいことのひとつだ。金だけは腐るほどある寂しいジジイ向けだとすると、なかなか親切なサービスのように思う。
それに初対面の相手とこんなにリラックスして過ごせるのは、女が高級娼婦として身につけているテクニックのせいなのかもしれなかった。

隣を歩く横顔を盗み見る。身長差がかなりあるので、伏せたまぶたからは表情が読めなかった。このどこにでもいそうな無害そうな女が数時間後にはおれの体の下にいるんだという実感が湧くにつれ、だんだんと興奮して心が浮き立ってきた。
 
「ふぐちり、お好きですか?」
「大好きです」
 
おれは力強く答えた。
 


*


「土嚢って、単に布とかポリエチレンの袋にスコップでそのへんの土を詰めて、その場で作るんですよね。けど子供の頃はそんなこと知らないから」

煙草が猛烈に吸いたい。会社のデスクの上に忘れてきてしまった。

「作業現場とかよくこっそり覗き見てて、どこからともなく土嚢がバンバン運ばれてきて、柵とか区画ができていくのがなんかすげえ、不思議でカッコイイって思ったんです」

初対面の女性と話すにしては自分の口調が不自然に若くなっていることが気色悪かったが、気にしている余裕はなかった。おれは深呼吸して続ける。

「自分が高校一年のころ、かなりでかい台風がきて。地元、盆地だから水はけ悪くてけっこうな水害になっちゃったんです。当時ニュースにもなりました」

 

そのときの光景は今でも鮮明に覚えている。
親たちにとっては絶望でしかない床上浸水も、子供(高校生は子供だ)にとってはテーマパークみたいにわくわくするアトラクションだった。
玄関のたたきまで水が入ってきて、慌てた父親の指示で、一階のものを片っ端から弟と三人で屋根裏に避難させたのは楽しかったし、母親が作ってくれた塩むすびと卵焼きを普段は使わない二階の和室の床に新聞紙を敷いて食べたのもいい思い出だ。

夏休みに入る直前だった。
学校は休校になっていたから、おれは暇に任せてバスケ部の仲間と町内をじゃぶじゃぶ歩き回った。練習着の短パンとビーサンで、最高の気分だった。同じくうろついてる私服姿の同学年の女子とすれ違っては軽口を叩き合うのが主な目的だった。

だけど町を端から端まで歩きまわるうちに、おれの目は次第に女の子よりも、あるものに強くひきつけられていった。家屋を損壊する水をせき止めるために、町中のいたるところに積まれている土嚢。

柵ひとつひとつに積んだ人間の個性や工夫が見て取れた。現場仕事のプロの積んだものはすぐにわかった。袋に土を詰め過ぎないことで袋と袋が密着し、隙間なく積むことができるということ、補強用に二列積みにした間に火山灰を敷き詰める工法もその時はじめて知った。

土嚢が好きだなんてまるでオタクの変態みたいだから、物心ついてからのおれはこの趣味について誰にも話さなかったし、そのこと自体極力忘れるようにしていた。幸い見ないようにすればあまり目にすることもないものだった。仲間と駅前で解散したあともおれは、毎日ひとりで町に戻り土嚢を観察して回った。
夢中だった。
水害の吊り橋効果でまわりの友達がどんどん女子と付き合い始める中、おれだけは寝ても覚めても土嚢のことを考えていた。
自分の手で土嚢を積んでみたい。そのことしか考えられなくなっていた。

町はずれの防風林のそばには水は流れ込んでいないのに、なぜか道の片側を塞ぐようにして土嚢が積まれていた。
これを崩せば、人に迷惑をかけることもなく災害用の本格仕様の土嚢袋を手に入れられる。このどうしようもない焦燥感を消す方法はそれしか思いつかなかった。悩みに悩んだ結果、とうとうおれは決行することにした。

真夜中の3時、家を抜け出して自転車で現場に向かう。異様に興奮していて、下見のときの半分以下の時間で着いた。もちろん人通りは一切なく、街灯すらなく、林に住むフクロウだけがほうほうと鳴いていた。
時間がない。まずは積まれた土嚢袋を上の段から崩す作業にかかった。全部で三段積まれているうちの上二段をすべて崩したあと、土嚢袋の口紐をほどいて中身の土を林の中の暗がりにぶちまけた。部活で鍛えていたから体力に自信はあったが、使う筋肉がまったく違っていて死ぬほどきつかった。何度も休憩を取りながら作業を進める。
空が明るみ始めるころ、ポリエチレン製の十八枚の土嚢袋が全身汗と泥まみれのおれの腕にずっしり抱かれていた。おれはそれを自転車の荷台にくくりつけて人目を避けて家に急いだ。帰りは行きの三倍の時間が掛かった。

裏庭の水道で土嚢袋をじゃぶじゃぶ洗う。これも滅茶苦茶な重労働で、睡眠不足もあって何度も気が遠くなりかけたけど、一時間近くかけてなんとか全部洗い終えた。
こんなやばいものを親に見られるわけにはいかない。生垣の隙間から隣の空き家の庭に忍び込むと、打ち捨てられた物干し竿や朽ち果てそうな縁側やボロボロの犬小屋の上に、水気をかたく絞った土嚢袋を引っ掛けていった。
泥のついた服を母親に見られると厄介なので着ていたタンクトップと短パンはその場で脱ぎ捨て、タオルで身体をざっと拭くとパンツ一丁になって家に戻った。

玄関を入ると真っすぐに風呂場に向かい、浴槽にお湯を張りながら体を洗う。全身に乾燥した泥がこびりついていた。爪の中に入った黒い土はいくらこすっても完全には取れなかった。
脱衣所から、起きてきたらしい母親の何やってんの朝っぱらからガス代もったいないという小言が聴こえてくる。
目を閉じる。犬小屋の屋根の上で、死んだ動物の皮みたいに干されている土嚢袋が目の裏に浮かぶ。自分がたぶんこの先二度と、これまでのようには土嚢に魅かれることはないだろうということがはっきりとわかった。
水位の少ない熱い風呂に無理やり首まで浸かりながら、自分の少年時代に終わりが来たことを知って、おれはすこしだけ泣いた。

 

*

その翌日だった。
昼前から降り始めた雨で増水した川が決壊し、地滑りを起こした防風林の下に住むクラスの女子、吉田渚の家を木の残骸と土砂が押し潰したのは。

 

*

おれはすでに後悔していた。この後どんな楽しい話をしてどんな美味い食事をしたとしても、女を抱くような気分になれるとは思えなかった。さっき耳元で囁かれたときの、どうしようもない昂りはすっかり消え去ってしまっていて、鉛を飲んだみたいに胃が重かった。


おれは仕方なく、別れた彼女の身体を思い出すことにした。それはこの二週間、考えないようにしても狂ったように次から次へと目の裏側に浮かんできた。
土下座すればもう一回だけ、やらせてくんねえかな...そう思うたびに自動的に思い出される彼女の身体の細部を、目を閉じて思い浮かべようとする。
だけど駄目だった。好きだった髪も、そこから覗く薄い耳たぶも、腰の横についた変な肉の感触も、霧の向こうにあるみたいに輪郭がぼやけてなにひとつ具体的には思い出せなかった。
代わりに浮かぶのは、犬小屋の上に広げられて泥水をしたたらせている、あの土嚢袋だった。
 
それを見透かしたように女は続きを促す。

「すっごくいいお話です。それで?それからどうなったの?」
「いえ、これでおしまいです」

ヒレ酒はすっかり冷め切っていた。小鉢の白子の表面は乾き始めていたがどうしても箸をつける気分になれなかった。

「山本くん」

女が唐突におれの本名を呼ぶ。心臓がひっくり返りそうになる。鼻の頭と首の後ろからいやな汗が噴き出す。女の名乗った源氏名を思い出す。なぎさ。
家を潰された吉田渚。

「山本隆之くんですよね?」

あの日、吉田渚もその両親も、家の下敷きになって死んだ。吉田の二個上の姉だけが奇跡的に生き残ったが、すぐに親戚の家に引き取られていったと聞いた。
十八歳と三十六歳じゃ面影くらいしか頼りがないが、目の前の女の鼻の形は、記憶の中の吉田のそれにとてもよく似ている気がした。

「私のほうが二学年上だったけど、あなたが妹と同じクラスだったからおぼえてます。うちの庭でやったクラス会の焼肉にも来てたよね」

吉田渚の姉。三年で吹奏楽部だった、吉田...由美子先輩であるところの女。
彼女が欲情していたかどうかはわからない。
うなだれたままの首が硬直したみたいに動かない。卓の上で組んだ震える両手から、顔があげられない。
そんな異様な状況にもかかわらず、まともに座っていられないほどの強烈な眠気がおれを襲った。身体が痺れて上半身を保っていられず、右肩を畳の上に強く打ち付けた。

「おつかれさん」

障子が乱暴に開けられる音がして、頭上から男の声が降ってきた。
どこかで聴いたような低い声...電話受付の男の声だ。恐怖で全身の毛穴が開く。せめて何が起ころうとしているのか確かめたかったが目が開かない。筋肉が弛緩して口の端から流れるよだれさえ止められない。

ここでおれはようやく、自分が先輩に騙されていたことに気がついた。
先輩がこいつらにどんな弱みを握られていたかまでは知らない。だけどあの日、本社の喫煙所でカードを受け取った日。いつも汗ひとつかかない先輩の、水色のワイシャツの脇と背中は汗でまっ青に染まっていた。それに先輩は、結婚相手に言われてとっくに禁煙していたはずだった。 

 

そんなことは考えたくなかったが、土嚢袋に詰められて運ばれる自分の姿をおれは想像した。別れた彼女が最後におれに言った言葉が頭のなかにこだまする。
「なんか空っぽの、袋みたいなんだよね」
目を閉じたままの真っ黒な視界が本物の闇になる。