がんばれあゆみちゃん

お題その3「植木屋のひみつ」

 

 

【がんばれあゆみちゃん】


《一》

お風呂かりるね、と言ったっきり姿が見当たらない。
勝手口を出て玄関のほうに回ると、思った通り吉田は縁側に腰掛けて庭を眺めていた。
雨戸は閉めきってあるから、お父さんたちのいる居間のあかりは届かない。表通りの街灯だけが、垣根沿いに植えた南天の木のつやつやとした質感の葉を照らしていた。
いつになく真剣な横顔に、冷凍庫から出したばかりのアイスをぺたっとくっつける。その冷たさに驚きもしないで、思いつめたような声で吉田は言った。

「隠し地下室がね、あるらしいんだよ」

私は吉田の隣に座り、もう一本のアイスの袋を破って一口かじる。吉田は続ける。

「すごくない?」

今年いちばんの熱帯夜が、ものすごい速度で手元のアイスを溶かしていく。角の取れかけたソーダバーは、端に行けば行くほど透明なすりガラスみたいに見える。私はそれを透かして庭の様子を眺めながら適当な相槌を打つ。

「すごいね」
「そこおじいちゃんが管理してた庭でさあ」
「えっ、まじの話だったの」
「まじだよ!」

溶けたアイスで汚れた指を私のショートパンツの裾でぬぐいながら吉田は続ける。

「こないだうちのおじいちゃん死んだじゃん」
「うん」

二週間ちょっと前に亡くなった吉田のおじいちゃんは腕のいい庭師だった。跡を継いだ吉田のお父さんもそうだし、吉田本人も高校を出てすぐに修行をはじめて、たしか七年目になる。女でも庭師になれるなんて知らなかった。

「そいで初七日終わったらすぐ、おじいちゃんの机の引き出しの鍵ぶっこわして日記とか昔のラブレターとか読んだの。そこに図面があって」
「いやいやいや」
「まあいいじゃん。でね、カドワキ先生んちの庭園の、真下にあるらしいんだよ」
「地下室?」
「そ。塀の外からも見える赤松あるじゃん?あれの根元に隠し階段があって、そっから降りれるみたい」
「へえ、ていうか門脇先生...」
「びっくりでしょ。わざわざ遠くの業者手配して施工やらせたらしいよ」

門脇先生というのは町で一番古い整形外科のお医者さん。治療の腕は良いんだけど、いつも仏頂面で機嫌が悪くて、取っつきづらい爺さんだ。あの人がそんな大掛かりで子供じみた計画を立てているところなんて、まったく想像できない。
吉田は私の肩をポンと叩く。

「でどうすんの」
「なにが」
「探検。やるしかないでしょ男のコ」
「いや女のコだし...」
「弱虫だなあ山本は」

吉田が食べ終えたアイスの棒が、大きな放物線を描きながら庭の隅に飛んでいく。やるなって言ってるのに何べん怒ったってやる。
濡れた短い前髪が額にはりついて、子供じみた話題とも合わさって吉田はまるで小学生の女の子みたいに見えた。

「ふつうに家宅侵入罪じゃん」
「そんなんどうとでもなる」
「勘弁してよ」
「...あ、ねえ行くのいつだっけ」

吉田は唐突に話題を変えた。
新卒で今の会社に入社して、二年間の地元支店勤務を終えた私は、東京本社への転勤が決まっていた。たいした引き継ぎもなく、今は入社して以来たまっていた有休を大胆に消化しているところだった。

「今月末」
「そっか...寂しくなるよ」
「なにそれ。すぐ追いかけてくるんでしょ」

一ヶ月か二ヶ月会社の寮で暮らして、私があっちに慣れた頃に手頃な部屋を探す。そのタイミングで上京してくる吉田と同棲をはじめる予定になっていた。吉田はまぶしそうに目を細めると私の鼻の付け根あたりをじっと見つめた。

「うん」

座ったまま距離を詰めて私の肩に顎をのせると、首筋に熱い額をぐっと押しつけてくる。
ものすごく暑い。たった今アイスを食べたばかりなのに汗がふき出しそうになる。だけど私の腕は吉田を振りほどけない、そういうことになっている。もう何年も前からそう決まっている。
しばらくそうしていると吉田は私の耳元で、なにかよく聴き取れないことをぼそぼそと囁いた。

「え?」

そう聞き返した瞬間、吉田は私の首に両腕を回して引き寄せると、滅茶苦茶なキスをしてきた。髪の毛が指でぐしゃぐしゃに掻きまわされる。突然のことに反応できずにいる私の下唇を思いっきり噛んでから顔を離すと、吉田はまるで小さい子供を見るような優しい目で私をじっと見つめた。
今更なにされたって驚くことかよと思いつつ、なぜかはげしく動揺してしまって思わず顔を伏せた。

「帰る」

吉田はけろっとした声で言った。

「え、泊まってかないの」

驚いて顔を上げた私の眉間を吉田は無言でびしっと指差すと、足元に放り出してあったビーチサンダルをつっかけて玄関わきまでスタスタ歩いた。そしてスタンドが壊れて倒したままにしてあったボロボロの赤いママチャリを引き起こして飛び乗ると、振り向きもせずに行ってしまった。

私はしばらくのあいだ縁側に座って煙草を吸った。行き場をなくした煩悩を振り払うように勢いをつけて立ち上がる。吉田の投げたアイスの棒を拾って庭木を端から眺めていく。
何年か前にうちを改築したとき、亡くなった吉田のおじいちゃんが植栽してくれたキンモクセイに夾竹桃。
三年前私がまだ大学生だった頃、何かの話の流れで「実のなる木って好きなんだよね」と言うと、翌日実家の軽トラで乗り付けた吉田が植えてくれた南天の木。去年は真っ赤な実をたくさんつけた。

今年の冬の始まりはきっと二人とも東京にいてここにはいないから、全部の実が一斉に色づき始めるあの圧巻の光景を見ることはできないんだなと思うとすこし寂しかった。

 


《二》

それが私が吉田由美子と話した最後だった。
その二日後の早朝に吉田が隆之...私の二歳下の弟と入籍したからだ。なんの相談も前置きも、別れ話もなしに。

昼過ぎに起きた私は台所のテーブルで、興奮した様子のお母さんの口からそれを聞いた。まだ寝ぼけた頭で、コーンフレークをスプーンでかき混ぜながら。
隆之とお父さんとお兄ちゃんと、お兄ちゃんのお嫁さんの美保子さんは仕事に出かけた後だった。

「明け方に出て行ったなーと思うたらね、もうびっくりよお。たかはああやけんお母さん諦めとるけど...ゆみちゃんもね、言ってくれればいいんよねえ」

そうだね。

「あんたもよ!知っとったんでしょうが」

お母さんも初耳だったらしく、怒ったような困惑したような、でもどこかしら喜んでいるような口調だった。
悲しくはなかった。もちろん嬉しいわけでもなかった。その話はあまりにも現実ばなれしていて、私の中になんの感情も呼び起こさなかった。子どもの頃プールの授業で耳の中に水が入ってしまったときみたいに、全部の音が小さく遠く、かさかさに乾燥して聴こえた。
気がつくとコーンフレークは限界まで牛乳を吸ってぶよぶよにふやけてしまっていた。お母さんがテーブル越しにそれについてなにかブツブツ言っている。

それからしばらくそのままぼーっと座っていた。小言を言うのをあきらめたお母さんが夕飯の買い物に出かけるとすぐに立ち上がり、最寄りのタクシー会社に電話した。自分の部屋へ行き、通勤かばんに財布と携帯とコンタクトレンズ数日分と眼鏡と化粧ポーチだけを放り込む。どうせしばらくは寮暮らしだし、服も化粧品も現地で買えばいい。
勝手口の戸締りを確認したとき、南天の木が一瞬目に入ってすこしだけ身構えたけど、やっぱりどんな気持ちにもならなかった。

タクシーの運転手さんは飲み会帰りのお父さんをしょっちゅう乗せているおじさんだった。世間話をしたそうに見えたけど、振り返って運転シート越しに私の顔を見るとすぐに黙ってハンドルを握った。
カーラジオからは消えそうなほど小さいボリュームで『トップ・オブ・ザ・ワールド』が流れていた。
家を出るときにはまだ小降りだった雨はどんどん強くなってきていた。窓ガラスについた水滴がつながって大きな水の玉をつくり、限界まで大きくなったそれが弾けて流れていくのを私は何度も目で追った。

駅に着くと、八日後の昼に予約していた東京行きのチケットをキャンセルして二時間後の指定席券に振り替えた。最寄りから新幹線の発着駅までの切符もあわせて発行してもらい、領収証を受け取るともう何もすることがなかった。改札を抜けてホームのベンチに座り電車を待った。

そこから先のことはよく覚えていない。気がつくと入社前研修のときに泊まった東京本社寮の個室の、シングルベッドの上で私は横になっていた。窓にはレースのカーテンだけが掛かっていて外は真っ暗だった。何時かはわからない。時計は持ってきていないし携帯の電源は切ってある。手のひらで頬を撫でてみる。私はもう一度固く目を閉じた。
喉が渇いて食堂の自販機にペットボトルの水を買いに行く以外の時間はずっと眠り続けた。二日だったか三日だったかそうしていた。

携帯の電源を入れると両親や美保子さん、それに隆之から何十ぺんも着信が来ていた。吉田からは一度もなかった。
週末に両親が寮の応接室まで押しかけてきたけど、なだめても脅しても私が何も喋らないことがわかると、また来るからと諦めて帰っていった。
たくさんの情報が一方的に流れこんできて、私は意識をばらばらにしてそれらの音を耳に入れないように努力した。
それでも来月頭からうちの実家で同居するという事実と、式はやりたくないらしいんよ、というフレーズだけは耳に残った。

*

そうこうしているうちに東京本社での勤務が始まった。
胸が張り裂けるような痛みを感じることは不思議となかった。ただ単に何を食べてもまともに味がせず、どんな景色を見ても赤や青以外の色がぼやけて見えるだけだった。
そして最初に三日間眠り続けて以降、なぜかぱたっと眠れなくなった。毎日夜中の二時に気絶するように眠りに落ちて明け方の四時に目が覚めた。

そして起きている間じゅう、ここ数年来の吉田の断片的なイメージが私の頭を支配していた。
私を見つめる、ビー玉みたいな目に薄いまぶた。顎から耳にかけての線。意外にきれいな歯並び、よく着ていたワンピース、少しだけ開いたカーテン、やわらかい下腹、浮いたあばら骨や脱ぎ捨てられた下着に頭の下に敷かれた枕の柄。そういった何もかもがものすごい速さのスライドショーみたいに眼球の裏を駆け巡った。
その情報の洪水は私が一人でいる限り、昼も夜もなく容赦なく私を責めたて、私は何度も何度もトイレで吐いた。もともと痩せ型だったのがさらに二ヶ月で七キロ近く落ちた。
仕事をしている間だけはそのイメージから逃れられたので、自然と私は仕事にのめり込んでいった。
ガリガリに痩せて眼だけがギョロついた私を同期の子達は気味悪がって避けるようになったけど、上司には重宝がられた。

お盆にも実家には帰らなかった。最初はあきれたり怒ったり泣いたりしていた両親も、秋の連休に何泊かで遊びに来てからは諦めたみたいだった(そしてそれは毎年の恒例になった)
お兄ちゃんはこっちに出張で来るたび飲みに行こうぜと連絡をくれたけど、従姉妹みたいに仲が良かった美保子さんは私に心底呆れたようで、しだいに疎遠になった。二月に子供を産んだばかりだったし、それが普通だと思う。

 


《三》

そして半年が過ぎたころ、隆之がふらっと私に会いに来るようになった。
携帯のディスプレイに表示されたなつかしい名前を見て、ほとんど反射で電話を取った。しまった、と思った瞬間懐かしい声が耳に響いた。

「品川駅についたよ」

慌てて品川まで迎えに行くと、改札のすぐ横で周りの人より頭ひとつ抜けて背の高い隆之が、小さな肩掛けカバンひとつで私を待っていた。まるで駅員みたいに堂々と落ち着き払って背筋を伸ばした様子に思わず笑ってしまって、そんな私を見つけた隆之は憮然とした表情で、顔の横で小さく手を振った。それでもう全部元どおりだった。

隆之と私は歳が近かったせいもあって(歳の離れたお兄ちゃんに二人ともえげつなくいじめられたせいもあって)きょうだいというよりは仲の良い幼馴染のようにして育った。
子供の頃から私たちはありとあらゆる話をした。私も隆之も口数が多い方ではなかったけど、二人で話しているかぎりは驚くほどスラスラと話を続けることができた。
その日のクラスでの出来事から共通の趣味である将棋のこと、隆之の入っている園芸部のコンテストのことまで、私の部屋の床のカーペットに寝転がって何時間でも話すことができた。男の子には珍しいことだとは思うんだけど、それは隆之が大学生になっても続いた。
そういえば隆之から恋愛の話を聞いたことは一度もなかったような気がする。どうして気付かなかったんだろう。
誰よりも、吉田とよりもずっと深く私と隆之はお互いのことをわかり合っていると信じていた。だからそんな彼の心のうちを、実際には何ひとつ知らなかったという事実もまた私を深く傷つけていた。

それから二、三ヶ月に一度のペースで隆之と会って食事をした。そうするうちに少しずつ食欲が戻ってきて、体重も以前より少し減ったあたりで落ち着いた。
隆之はいつでも決まって私の仕事について尋ねる。いくつか的確な質問をしては私に答えさせ、なるほどねえと言って興味深そうに顎のあたりをさすった。地場の製薬会社で研究職をやっている隆之にとって、契約書相手の私の仕事は異次元の領域らしかった。

そんな習慣は知らないし恥ずかしいからやめてと言うんだけど、別れ際はアメリカ人みたいに大きく腕を広げて私をギュッと抱きしめた。中学に入るまでひどく病弱で、すぐに熱を出して寝込んでいた頃のことが嘘みたいに分厚い肩だった。
隆之が吉田を抱いているシーンを想像することは不思議となかった。ただ私にいつもそうしていたように、隆之の背中に耳をぴったりとくっつけて眠る吉田を想像すると、足元に底の見えないほど深い穴が開くような気がした。
独身時代と変わらない隆之の生活習慣から推測するに、ふたりの間にまだ子供はいないみたいだった。だけどまあそんなことは全部どうでもいいことだ。
もういい加減終わりにする、吉田由美子に関するすべてを私は忘れる、そう決めた。
今となっては私と吉田の人生は、親族であるということ以外なにひとつ関わりをもたないものになったわけだから。

*

二年近くの月日が経ってもまだ不眠は続いていた。
カウンセリングや薬を試したくはなかった。誰かに話せば全部現実になってしまう気がしたし、誰の力も借りずに自分の力だけでなんとかしたかった。

そこで私は、出来る限りたくさんの男と寝ることに決めた。頭がおかしくなったわけじゃない。
職場の飲み会のあと同僚と勢いでそうなったことをきっかけに、セックスをした直後だけは信じられないくらいスムーズに眠りにつけること、朝日が昇るまで決して目覚めないことを発見したからだ。なぜだかはわからない。

そういう話をする女友達がほとんどいなかったから平均的な数がどれくらいなのかはわからないけど、それまでの私の価値観からすると異常な数の男と、文字通り私は寝ることになった。
寮主催の合コンの相手、会社の同僚、会社の同僚の彼氏、一人で飲んでいるときにたまたま声を掛けてきた男。対面で話したときの感じで生理的に無理でなければたいていの相手と寝た。
致命的なことは一度もなかったし、ものすごく嫌な思いをすることもなかった。ただ単にめちゃくちゃに運が良かったんだと思う。

高校時代に付き合っていた彼氏としか経験がなかったからはじめのうちは慣れなかったけど、なんというか...ある程度まで品質が揃っているものなんだな、そんなふうに感じた。ただ単に私がそういうことに向いていたというだけかもしれない。
男との行為は私をただひたすらに熱く暗く興奮させ、それでいて安心させた。馬鹿みたいな話だけど、男と寝ると自分がきちんとした人間であるような気さえした。
吉田を抱くときにいつも感じていた激しい動揺や焦燥感が私の中に生まれることはなかった。
吉田との行為は例えるなら、毎回違うパターンの真っ白なジグソーパズルを熱狂的に解いているような感じで、それは毎回どこにも行き着かなかった。それはいつでもたったひとりの吉田自身にしか辿りつかなかった。

女とは一度も寝なかった。不思議なことに、私は吉田以外の女に対してはほとんど性的な興味を持てないみたいだった。それに女の身体は吉田を思い出させる。

そうこうしているうちにあっという間に一年が過ぎ、三年が過ぎた。

 


《四》

会社がリースしている複合機のメンテナンス業者の彼とは、テナントビル共用の喫煙ルームで世間話をしているうちに、飲みに出かけるようになった。ふたつ歳下で、関西弁がほんのかすかに残るイントネーションが印象的で、感じがよかった。

三回飲みに行っても彼は私に手を出さなかった。目的が達せられないのに会うというのは居心地が悪く、そういう曖昧な状態でいると神経がグズグズに腐っていくような感じがした。
不思議なことに、彼とデートしている間に並行して寝ていた相手の隣で私は、まったく眠れなくなってしまっていた。今夜何もなかったらもう会うのはよそう、そう決めていた。

二軒めに移動する途中、泥酔した彼の目は見たことがないほどすわっていた。

「山本さんはぁ」
「はい」

足元がふらついている。思い切って後ろから腕を組む。彼は私をじろっと睨みつけると、ドスのきいた低い声で

「ヤリマンすか」

と言った。
そうなんですヤリマンなんです、と答えるわけにもいかず黙っていると、彼は私の両肩をがしっと掴んで私の顔を覗き込むようにジーッと見つめて、ニコッと笑った。

「それでもいいっ!付き合ってくださいっ」
「どうしてこの流れで付き合うと思うの」

驚きのあまり思わずタメ口が出てしまった。

「あぁそっかぁ?しくじったなあもぉ」

彼はガクッとうなだれて私の両肩を掴む手の力をギュッと強めた。
強めたにもかかわらずそれはまるで壊れものを扱うような優しい触り方で、私はなんだかハッとしてしまった。

「いいですよ、付き合いましょう」

私は人の、心からの真剣な頼み事を断ることができない。

*

驚くべきことに、二十九歳にして彼は私にとって二人目のちゃんとした彼氏だった。
次の日の朝、昨夜起こったことのほとんどすべてを忘れてしまっている様子の彼にそう告げると、彼はすこし驚いたあとあからさまに嬉しそうに「うっわ」と言った。なので経験人数については伏せておいた。
彼の歯並びはガチャっとしていて、笑うとさらに乱雑になってとても可愛い。そして背の高さや眉毛の太さ、黙っていてもなんとなく失礼な感じなんかが全体的にすこしずつお兄ちゃんに似ていて、自分で自分が気持ち悪かった。

*

それ以来私はナンパについて行くのをやめた。というよりは一人で夜にふらふら出歩くのをやめた。携帯の番号を変えて、そういう相手や上司とプライベートの連絡がつかないようにした。
しばらくは元上司に社内メールで問い詰められたり寮の門の前に地団駄を踏む男が現れたりしたけど、深い付き合いではなかったこともあってわりとすぐに収束していった。
最悪だった女子寮内での私の評判は、さらに地の底まで落ちることになったけど構わなかった。すぐに退寮手続きをして彼と同棲するための部屋を借りた。

長い実家ぐらしと寮ぐらし、それに乱れた生活で私は料理に関してはまったくの無能だったので、家でごはんを食べる時はいつも、彼がぶつぶつ文句を言いながら作ってくれた。ものすごい量の、牛肉といんげんをただひたすら甘辛く炒めたものと白いごはんを、狭いカウンターに並んで仲良く食べた。

特別嬉しいときにだけ踊るドーモアリガトダンス、というのが彼にはあって、男の子もそういうおちゃらけをするんだということをはじめて知った。それは鳥の求愛ダンスをベースにしていて、無言で首と手足をリズミカルに上下させるという不気味なしろものだった。それを静寂の中むちゃくちゃに荒い息遣いでやるから、くだらないと思いつつ爆笑してしまう。
ダンスは細部の動きにこなれ感があり異様に洗練されていたので、前につきあった子の前でも披露していたんだろうなと思うとイラっとして、クライマックスのところで足をひっかけて転ばせたりした。

隣で眠る彼の背中に耳をぴったりとくっつけて、大型犬みたいに規則的で深い寝息を聞きながら毎日眠った。そうして私はいつの間にか会社に遅刻しそうなくらいぐっすり眠れるようになっていた。セックスをしても、しなくてもだ。

*

そうしていくうちに、予定どおり吉田のことは良いことも悪いこともすべて、もやがかかったように遠くあいまいな記憶に変わっていった。
それでもふとした瞬間、たとえば送別会の二次会場への移動中に、ちょうど吉田と同じくらいの背丈の同僚と並んで歩いているときなんかには、あの最後の夜のことを思い出した。
縁側、ソーダアイス、熱い額、冷たい二の腕、南天の木、広さも形状も用途もまったく想像がつかない、秘密の地下空間。

あのとき「いいよ、行こう」と言っていたらどうなっていたんだろう。私が転勤しなければ何かが変わっていたのかな。いくら考えたってわからない。だってそれは起こっていないことだから。可能性の外側にあることだから。

吉田のほうが私を好きだって、ずっとそう思ってたんだけどな。

 


《五》

卒業式のあと、校門前でグズグズしていると吉田に声を掛けられた。
私の唯一の級友ミカちゃんは野次馬体質で、第二体育館でやっているという告白イベントを見に行ってしまっていて、その帰りを手持ち無沙汰に待っているところだった。

「山本卒業おめでとー」
「あ、吉田もおめでとう」
「おめあり」
「...」
「どしたどした」

私と吉田は小中高と同じ学校に通っていた。家が近所なのもあって小学生のころは毎日のようにふたりで遊んでいたけど、中学に入った頃からほとんど喋らなくなった。いわゆるノリの違いってやつだ。

「吉田就職だっけ?」
「うん。ていうか自分ち〜」
「安泰だね」
「べつに?花から始まる花はなし、つってね。よくうちのおじいちゃんが言ってる」
「へえ...?」

なんだかよくわからない。

「山本は大学だよね」
「うん」
「国立?たしかいいとこだよね知らんけど」
「いや公立。別にたいしたとこじゃないよ」
「じゃあ二人ともぜんぜん安泰じゃないね」

吉田がニッと笑う。私もそれにつられてすこし笑った。
それでしばらく無言になったあと吉田はいきなり真顔になって声をひそめた。

「あたしさあ」
「はい」
「山本の顔すごい好きなんだよね」
「えっ」
「なんともいえずいいんだよ」
「あー、ありがとう...?」

なんだこいつ。高校に入ったあたりからつるむ友達が変わりはじめた吉田と口をきいたのはずいぶん久しぶりで、こんな軽口を叩かれるような仲じゃなかった。距離感がおかしい。
子どものころはただ一緒に遊んでいるだけで楽しくて気にならなかったけど、あきらかに気が合わないし、なんの意図があってこんなことを言ってくるのかわからなくて不気味だし、気まずすぎて冷や汗が出てきた。
ここでふと、吉田が二年の頃からつきあっているバレー部の男の子のことを思い出した。逃げるチャンスだ。

「あ、ねえ斉藤くんとこ行かなくていいの」
「ウンさっき行った。そいで別れてきた」
「へ?!」
「うむ」
「えっなんで!仲良かったじゃん」
「えーそんなの知っててくれてたんだ」
「そりゃ隣のクラスだし...え、でもほんとなんで?」
「山本とつきあわなくちゃいけないから」

吉田ははっきりとそう言った。

「は?」
「だから!二人とは同時につきあえないでしょ」
「いやそういう話じゃなくて。意味わからん...」
「そりゃ山本があたしのこと好きだから」
「ええー....初耳」

というか吉田はなんなんだろう。いわゆるそういうアレなのかな?でも宮田くんもその前の人も男だし...

「だってさあ」
「はい」
「卒業したらたぶんもう会えなくなっちゃうじゃん」
「まあ、そうだね」
「ねえ中学でも高校でも話してくんなくてすごい寂しかったよ」

私たちには十センチ近く身長差があるので、うつむいた吉田の頭のてっぺんと耳のうしろがうっすら赤くなっているのが見えた。
それを見た瞬間自分でも予想外の言葉が私の口をついて出た。

「わかった」
「うん?」
「いいよ、つきあう」

吉田が勢いよく顔を上げる。

「まじで...?」
「うん」
「意味わかって言ってる?」

自分から言いだしておいて、吉田は困ってしまったみたいだった。なんだそれ。

「怒るよ」
「いやだって、だってあまりにも......ちょろすぎるだろ!」

吉田はくすぐったそうに笑った。
そしてそれがすべての間違いのはじまりだった。

 


《六》

「いろいろありがとうね」

最後に私がそう言うと彼は呆れたような、傷ついたような微妙な表情で私の顔をじっと見つめた。
私の職場の後輩に手を出したのは向こうなのに、ずいぶんな態度だと思う。さすが業界シェアトップの複合機メーカーさんはマルチチャネル対応ってか、わはは...。
そんなおじさんみたいなセルフつっこみが入るくらいには私は平静だった。

*

同じチームの、五個下の後輩に呼び出されて事実を聞かされたときは動揺しすぎてなぜか、わーどうしようごめんね!と謝ってしまった。後輩はものすごい顔で私を睨みつけた。
家に帰るとようやく実感がわいて、一気に吐き気をもよおしてきた。ほんの一年前までの自分の貞操観念の異常さは棚に上げて、私は相当に大きなショックを受けていた。顔も洗わずに倒れるようにベッドに横になる。
その日の夜遅く帰ってきた彼は、後輩と会って話を聞いたのかそれとも私の様子から察したのか、おずおずとした態度で寝室に入ると私の頭を撫でようとしてきた。私は思わずその手をはねのけた。
嫉妬なのか怒りなのかなんなのか、感情が追いつかないままポロポロと涙がこぼれて枕に染み込んでいく。それを彼に見られるのが死ぬほど悔しかった。
その日から彼はなにも言わずにリビングのソファで寝るようになった。

*

だけど不思議なことに、一週間もたつと憑き物が落ちたようにすっかり平気になってしまった。彼は何度も向こうとは別れてる、やり直したいと繰り返したけど、私はもう終わりにしようよと言った。
私だってこの生活が終わってしまうのは寂しい。ドーモアリガトダンスが二度と見られなくなるのはすごく寂しい。だけど面倒臭いなあと思う気持ちのほうがずっと強かった。

後輩は、私と違って女の子たちにも人望があって顔も可愛くて課長のお気に入りで、負け惜しみみたいでこんなこと言いたくないけど...そうとう陰険な性格だった。
今は業務連絡以外では無視しあっている状態だけど、このままだとシェイクスピアか大江戸大衆演劇の心中ものみたいな大騒動が持ち上がるに決まっていた。
まあそれも全部ただの言い訳で酷い話、もうだいぶん前から私は彼のこと、要らなくなっていたんだと思う。

*

別れることが決まった四日後の夜中、なるべく遅く帰るようにしていた私は洗面台で化粧を落としていた。
彼は珍しく起きていて、脱衣所の壁にもたれかかると涼しげな口調で

「俺が買ってあげたドライヤー、返してね」

と言った。
私の知る限り、本来そういうことを言うような人ではなかった。鏡ごしにぼーっと見つめると彼がぎゅっと目を強くつぶるのが見えた。

ともかく一刻もはやくここを出て行くべきで、身の振り方を決めなくちゃいけない。
部屋は引き払うとして、長い間先のことをまったく考えない暮らしをしていたので貯金はほとんどなかった。社内規定で寮には出戻りできないことになっているので完全に詰んでしまった。
それで自分でも驚いたことに「よし、会社やめるか」という気持ちに自然となった。
彼と暮らしはじめてから、なぜだかはわからないけど仕事に対するあの狂ったような情熱は私の中からきれいさっぱり消え去っていた。これが専業主婦願望かあ?なんて思って気楽に構えていたけど、そんな単純な話ではなさそうだった。
それまでの蓄積と惰性で最低限のことをこなしているだけの状態が続いていて、春の人事で同期のうち三人が昇格したことを悔しいとも感じなかった。あきらかにもう潮時だった。

気づけば友達もひとりもいなかったし東京にはもう、何ひとつ失いたくないものがなかった。退去手続きと退職手続きを終えるとそれで本当の本当に、きれいさっぱりからっぽになってしまった。
私は実家に帰ることにした。吉田に会いたくはなかった。だけどあまりにも疲れすぎていて、他に何ひとつ選択肢が思い浮かばなかった。

 


《七》

実家の最寄り駅前のロータリーでお母さんの車を待った。荷物は肩にさげた旅行かばんひとつだけだった。たいていのものは捨てたし、段ボール三、四箱ぶんのわずかな服や雑貨は今朝送って、二日後には届くはずだ。

しばらくすると待機列の最後尾に白い軽トラックが停まった。横腹に角ゴシック体で『園造田吉』と文字入れされたトラックで、運転していたのはもちろん吉田だった。想定範囲内の事態だったはずなのに、心臓が止まりそうになる。
私に気付いた吉田が片手をあげる。短く二回クラクションが鳴らされるのを聴いた瞬間、逆方向に足を踏み出していた。車が待機列から抜けてこっちに向かってくるのが視界の端に見える。私は歩く速度を速めた。

「ねえ!」

駅前商店街方面にプロムナードを抜けようと急ぐ私の横をトラックはぴったり徐行しながら着いてくる。吉田は運転席の窓から出した右手で車体をリズミカルに叩きながら私を呼ぶ。

「やーまもとー」
「...」

このままだと目立ってしょうがないので仕方なく立ち止まって運転席に目をやる。相変わらず明るい色の髪を雑にまとめている、六年間姑と同居しているにもかかわらずいっさい老けていない吉田だった。
...そうだった。結局同じ家に帰るんだから今逃げたって無駄なんだった。

「山本キレイになったね。やっぱ東京帰りは違うわ」

吉田は目尻を下げる。
日常会話くらいなら普通にできると思っていたからこうやって帰ってきたわけなんだけど、こう調子に乗られるとむかむかと腹が立ってきた。吉田はそんな私の様子に構わず続ける。

「ねえ仕事なにやる?うち実家今人足りてないんだけど、腕さえ付いてりゃ年増でもなんでもいいらしいよ」

私はまた歩き出す。吉田のトラックもぬるぬると追いかけてくる。

「うそうそ。親方がさあ、あんたにきて欲しいって言ってるんだよ」

親方というのは吉田のお父さんのことだ。

「気心も知れてるしあんたのこと好きなんだよ。弟子取ってもうまく話せなくてガンガン辞めちゃうよね」

良い人なんだけど人見知りで口下手なおじさんの弱り顔が頭に浮かんで、すこしだけ頬が緩みそうになるのをこらえた。

「たかちゃんはねー、あのヒト自分の仕事好きだからね。だいたいどんくさ過ぎて頼めることないし」
「働くわけないでしょ!!」

吉田の口から当たり前のように隆之の名前が出た瞬間にカチンと来て、私は運転席の窓に手をかけて怒鳴った。

「あっ...ぶないよ山本」
「どうしたらそんな馴れ馴れしくできんの」

それだけ言うと私は大通りから逸れて車両進入禁止の路地に入った。とにかくお母さんには急に予定が変わったとかなんとか言って、今夜は駅前のビジネスホテルにでも泊まろう、じゃなきゃ夕ご飯の前にでも私はこいつを殺してしまうかもしれない。

「待って待って!」

車を路肩に停めると吉田は大股で歩く私に全速力で駆け寄り、かばんの端を掴んだ。
肩で息をしながらケホケホと咳をする吉田の頭が揺れる。そのあまりに小さい頭蓋骨を見ていると、殺意が急速にしぼんでいくのがわかった。

*

吉田の軽トラの助手席に乗せられて、私たちの通っていた高校のすぐそばを流れている川沿いまでやって来た。車から降りて、河川敷に植えられた芝生の上に座る。さっき自販機で買ったコーヒーの缶を両手に提げた吉田も隣に座った。
吉田は藍色の鯉口シャツと同じ色の股引に地下足袋を履いていた。口に出して言ったことはないけど、そういう仕事着姿が吉田には特別に似合う。

「はい」

ミルクコーヒーの缶を手渡す吉田の声はかすれている。よく酒灼けと間違えられるハスキーな声は見掛け倒しで、実際には吉田は煙草もお酒もブラックコーヒーまで全部ダメだった。

「もうさすがに怒ってるとかじゃないよ」

私から切り出した。

「うん」
「昔の話だし。けど正直言って」
「うん」
「気持ち悪いし、積極的に口ききたいとかではないんだよね」
「怒ってんじゃん」
「ないって。しばらくは実家いるけどすぐ出てくから」
「なんでよう、一緒に住もうよ」
「そういうのいいから」
「だってさあ、聞いてよ」
「なに」

ほんの少しだけ迷った様子を見せたあと、足元の草をちぎりながら吉田は言った。

「山本あたしと結婚できないじゃん」
「なんでそんな酷いこと言うの?」

思わず本音が出てしまった。視界に灰色の斜がかかる。喉の奥に溶けた金属が混ぜこまれたみたいに息苦しくなる。私は吉田の横顔を睨みつける。
吉田は私を見ない。太陽の光の乱反射する川面をまぶしそうに見つめながら続ける。

「事実だから」
「...」
「ごめんね」
「わかってたことじゃん」
「だからそれはごめん、でも」

吉田は続ける。

「どうせ山本のヨメになれないんなら、せめて妹になりたかったんだよね。どうしても」

絶句した。何を言ってるのかまったく理解できない。さらに吉田は続ける。

「それってそんなにだめなことかなあ?」
「キモい、エグい。吐きそう。吐く」
「傷つくなあ」
「知らんよ。大体たかにむちゃくちゃ失礼じゃん、たかはあんたを本気で」
「たかちゃんホモだよ」

*

「......はっ?!」
「やっぱ知らなかったよね」
「...」
「そうしたいってあたしから頼んだの」
「...」
「子供はもう隆一くんとこいるからいいよねって」
「いやちょっと待って...ついていけてない」
「たかちゃん好きだし。あそういう意味じゃないよ、あのヒトK市に彼氏いるし」

情報量が多すぎる。頭がパンクしそうだ。黙っていると吉田は呆れた声を出した。

「本当になんも知らないんだね」
「うん...いや...言ってよ...」
「聞かれなかったから」

私は息を飲んだ。
吉田は滅茶苦茶に怒っていた。いつもと同じヘラヘラした表情なんだけど、今にも私をぶっ殺してやりたいと思っているのがひと目でわかった。
二十年以上も知っていて、吉田が怒っているところを見るのは初めてだった。
すっかり冷えきった声で吉田は続ける。

「聞けば言ったんじゃない?山本あたしに興味ないからね」
「そんなことない」
「そんなことあるよ。昔から」

吉田は一瞬固まっておそらく『自分以外の誰にも興味ないじゃん』という言葉を飲み込んだまま続ける。

「あたしなら聞くね。どんな悲しいことでも、山本のことなら知りたいもん」

私は力を振り絞って口を開く。

「たかは?どうして言わなかったのかな」
「あたしの片思いだから絶対言わないでって頼んだの。みじめになるからって」
「なんでそんな嘘つくの」
「本当のことでしょ」
「ちょっと待ってよ...」
「たかちゃんにはずっと断られてたんだけど。そういうことなら、って言ってくれたんだよね」

人の切実な頼み事を断ることができないたちなのは隆之も同じみたいだった。
変わっていないと思っていたけど、横からよく見ると吉田の目の周りは六年前よりかなり落ち窪んでいて、疲労と諦めが染み込んでいるように見えた。

「それに東京とか行きたくなかったもん。あたしは家の仕事好きだし、地元が好きなの」
「だから...なんで言わないのそういうの」
「はあ?全部ひとりで勝手に決めて、一回も聞いてくんなかったし」

それは....なんでだろう。
それにあの時、最後の夜に吉田は、私の耳元で何と言ったんだっけか?わからない。...訊き返さなかったから。

「でも六年だよ?」

気がつくと私の右手は吉田の左肩を、指が食い込むほどに強く掴んでいた。

「私、私その間彼氏作ったりもしたし...結婚してたかもしれないよ」
「だとしてもあたしが山本の妹なのは変わんないでしょ」
「だからなんで...そうなるのか全然わかんないんだよ...」
「じゃあもう一生わかんないよ」

明らかに人の道に外れた、異常なことをしているのは吉田のほうなのに、私の方がおかしいような気がしてくる。だからと言って、はいそうでしたかごめんなさいこれからは仲良くしましょうとは、とてもじゃないけど思えない。
だけど私は、自分があらゆる面で情緒の欠落した無軌道な人間なんじゃないかということに、すこしずつ思い至っていた。
あの日鏡ごしに見た彼の、捨て犬みたいな眼を思い出す。胸の中に小石が入っていてカシャカシャかき回されているような気がする。彼のいいところばかりが思い出された。たとえどんなに限定的な意味合いであっても、彼が私に与えてくれた本物の愛情が思い出された。
目の前が点滅しているような、足元の土が溶けて胸のあたりまで沈んでいくような気がした。

「...彼氏いたんだ?」

唐突に吉田が言う。眉間に深い皺が寄っている。

「は...?うん」
「あたしは山本だけだったのに?」
「なんじゃそりゃ」

吉田は昔からしょっちゅうえげつない嘘をついたし、たぶんそれも普通に嘘だと思う。
だけど今の私はなんとなく、それを信じたいような気がした。
ひとしきりぶつぶつ言ったあと腹当てから取り出したポケットティッシュで盛大に鼻をかんだ吉田は大きくのびをするとケロッとした声を出した。

「ねえ暗くなったらさ、あそこ行こっか」
「え?」

本当にわからなかった。

「なにすけべなこと考えてんの。地下室だよカドワキ先生んとこの」
「...」
「忘れちゃった?」
「おぼえてる」

差し出された左手を右手で握る。あいかわらず赤ん坊みたいに小さくて熱い手だった。
夕方の最後の光が逆光になって吉田のうす汚い茶髪を金色に縁取る。

 


《八》

軽トラの中で、さっき口をつけそびれたコーヒーを飲みながら日が落ちるのを待った。缶コーヒーなんて飲んだのは六年ぶりで、頭痛がしそうなほど甘い。
全開にした窓から夏の始めの夕方の生ぬるい風が流れ込んで私たちの前髪を乱す。
高校生の頃毎日歩いていた川沿いは、なんの匂いかはわからないけど何度かかいだことのある匂いがする。何かの死体の匂いなのかもしれない。

吉田がなにも喋らなかったので私も黙っていた。それでも気詰まりな空気はない。
吉田といると...まあ吉田が一人でひっきりなしに喋ってるっていうのもあるけど...自分が本来無口な人間なんだっていうことを思い出す。
疲れたのか目のふちがすこし赤い吉田が、飲み終わった空き缶をこっちに差し出して言う。

「窓あいてるし吸っていいよ」
「もうやめた」

彼...元彼と同棲を始めると同時に煙草はやめていた。だからもう我慢する必要はないんだけど、今さら吸いたいとも思わない。

「へえ、ぜんぜん似合ってなくて可愛かったのに」
「うるせえわ」
「だいぶん暗くなってきたね」

いつの間にか窓の外はすっかり夜になっていた。東京より一時間は日が沈むのが早い気がする、単に人工のあかりが少ないからかなとも思う。親が死ぬまで帰らないと決めていたのに結局帰ってきてしまった。

「鍵預かってるから本当はいつでも入っていいんだけど...やっぱ信用問題だからね」

信用問題だからなんなんだろう。吉田はエンジンをかける。

*

運転しているときの吉田の横顔は真剣そのもので、助手席に座ってそれを眺めるのが好きだったことを思い出した。性格に似合わずいつも静かで抑制がきいた、丁寧な運転だった。もしかするともともとそういう性格なのかもしれない。
国道沿いの道に出るとファミレスやガソリンスタンドの看板の灯りが、吉田の血の気のない頬や薄いまぶたに赤と青と緑の小さな光を次々と投影した。吉田の目はものを見るためにあって、耳も鼻も口も全部が実用的な目的のためについているのに、どうしてこんなによくできてるんだろう。
面倒なことは全部置き去りにして、このままいつまでもそれを見ていたいと思った。

*

地下室の入り口は聞いていた通り、門脇亭の庭園の、外塀に近い位置に植えられた赤松の根元にあった。母屋からの視界を遮るようにして低木が配置されている。
トラックの荷台から持ってきた、先端が直角に曲がった鍬みたいな道具と平たいスコップを器用に使って吉田は、半畳ぶんくらいの面積の芝生を手際良く持ち上げていく。その部分だけ、精巧に作られた特注の人工芝になっているとのことだった。
足手まといになりそうなので、すこし離れた飛び石の上にしゃがんで吉田の仕事を眺めた。五月の終わりとはいっても夜になると肌寒くて、私はカーディガンの前をかきあわせて手のひらをこすった。
目隠しの芝生を剥がし終わると、その下からステンレス製の銀色の跳ね扉が顔を覗かせる。吉田は首にかけた紐を襟元から引っ張り出し、先端に結び付けられた小さな鍵をその鍵穴に入れた。取っ手を引き出すと腰を落として扉をゆっくり持ち上げる。私も吉田のすぐ後ろに立って眺める。

ハシゴ以上階段未満という趣のタラップが真っ暗な空間に向かって斜めに突き刺さるようにして降りていた。穴の底は真っ暗でなにも見えない。
吉田は腰に下げた工具入れの中からマグライトを取り出して口にくわえると

「ちょっと待ってね」

と言って猿のような身軽さでスルスルとタラップを降りて行った。
数十秒後、穴の中からオレンジ色のあかりがぶわっとあふれ出してタラップを駆け上がる音がした。

「はやく!閉めて閉めて」

私は慌てて吉田が吸い込まれた穴に後ろ向きに飛び込むと内側の取っ手に人差し指をひっかけ、なるべく静かに扉を閉じた。

「わりに運動神経いいよね、やっぱ植木屋向きだと思うよ」

吉田は感心したように言った。

タラップを底まで降りるとそこはL字に曲がった通路になっていて、光はその奥にひらかれた広い空間から漏れ出ていた。猫背になって吉田の肘を掴みながらそろそろ歩く。この時点ですでに嫌な予感がひしひしとしていた。

*

そこは私が六年間のあいだ、ぼんやりセンチメンタルに思い描いていたような場所ではなかった。そこは、ありとあらゆる意味で人間の想像力を蹂躙するような場所だった。

まずはじめに頭痛がするような異様な臭気が鼻をつく。バラの香水を煮詰めたような強烈なにおいだ。
セメントづくりの壁は、肉色としか言いようのないサーモンピンクのペンキでべったりと塗られていて、床には緑と黒の市松模様のビニール材が敷かれていた。壁一面にしつらえられた飾り棚には、昭和感の強いエロ雑誌や黄ばんだ箱に収められたアダルトグッズが所狭しと並べられている。数百、いや数千点はありそうだ。

前に似たような雰囲気の場所を見たことがある...四年ほど前に会計課の課長に誘われて一泊で行った熱海の、秘宝館。ここはあの場所に驚くほど似ていた。営利目的なぶん向こうのほうがまだ清潔感があるくらいだ。
控えめに言って、そこは今までの人生で見てきた中でいちばん下品で、悪趣味で、最低の空間だった。

唖然とする私を横目に、吉田は特に豪華な飾り棚のひとつに据えられた桐箱に駆け寄って私に手招きする。

「ねえこのバイブ見てよ山本、三つまた!」
「ちょっ...触んないほうがいいよ、病気になりそう」

私は駆け寄って吉田の手首を掴んだ。
吉田はアハアハと笑いながらそのまま私の手を引いて、隅に据えられた焦げ茶色の革製のソファセットに向かって歩いていく。
地下室の中でもこの一角だけが、門脇整形外科の待合室を連想させる清潔さをたたえていて、それがかえって空間全体の不潔さを強調していた。

「なんなのここ、やばすぎる...」
「やばいよね」
「さっきから思ってたんだけど、なんか慣れてない?」
「実はたまに来てんだよね」
「えっ嘘」
「ほんとほんと、いまここの庭園の管理してるのあたしだし。カドワキ先生おととし死んじゃったのよ」
「そうなんだ...」

吉田はソファに深く身体を預けた。私はなんとなく隣には座らずにガラステーブルに片手をついて立ったままでいた。

「ここに来るとなんていうのかな落ち着く...っていうのは違うか。死ぬほどキモいし、なんかくさいしね。でもなんかホッとする、可愛くって」
「可愛い?」

その言葉は人間がこの場所から連想できる中でいちばん遠い形容詞のように聞こえて、私はギョッとした。

「うん」
「よくわからん...」
「ドクターカドワキのやったぜスケベらんど!」
「ふっ」
「しかも地底て」
「おう」
「隠す暇もなく死んじゃって、こうやってうちらに暴かれてキモがられてさ。かわいくない?」
「いやー、わかんない...っていうか冒涜って言うんじゃないかな、こういうの」
「そお?じゃ山本はなにがあると思った?」

私は想像していたことを言った。
書斎、オーディオルーム、瞑想室...

「本当にバッカだなあ、大学まで出してやった甲斐がないよ」
「あんたに出してもらった覚えない。だいたいね大学ってそんな...吉田の想像してるようなとこじゃないよ、バカでもないし」
「バカでしょ。あの手のジジイの作る秘密基地なんてこんなんに決まってんでしょ」
「えー...」

人間なんてこんなもんだよ。頭ん中のほとんどぜんぶにへんな臭いのするガラクタがぎっしりつまってんの。そいでその残りのちょっとの部分でみんな、なんとかかんとかやってんだよ。
吉田は私をあやすように、歌うように言いながらソファから立ち上がると、飾り棚のひとつからバリバリに乾燥して今にも分解しそうなエロ本を取り出して乱暴にめくった。

「もっともらしいこと言うね、吉田のくせに」
「クソ田舎で嫁やりながら家業継いでるとね、ものすごい勢いで大人になんの」
「...」
「なに」
「一緒に大人になりたかったよ」
「はぁ?甘えんなっつうの」

吉田は片方の頬をぐいっと歪めて笑った。目が毛糸みたいに細くなる、私の好きな表情だった。
それを見た瞬間私は、とうとう耐えきれなくなって思わずその場にしゃがみこんでしまった。すぐに気付いた吉田が、おそらくかなり貴重なもののはずのエロ本を床に放り投げて私に駆け寄ってくる。膝を抱えて顔を伏せると手足の先がすうっと冷たくなった。

「あゆみちゃん!」

子供の頃の呼び名だった。
顔を上げると目の前にしゃがんだ吉田が眉間にしわを寄せて不安そうな顔で私の髪を撫でた。

「泣かないで」

泣いてなんていなかった。だけどどうだろう、わからない。もうずっと長い間泣いていなかったから。
顔を手で覆ってしばらく息を整えてからふらふらと立ち上がると、吉田もつられて立ち上がる。私はその腰に腕をまわして強く抱き寄せた。

見た感じはまったく変わっていないのに、吉田の腰まわりは六年ぶんの年齢を感じさせる感触がした。吉田の髪は私が子供の頃からずっと家族で使っているシャンプーの匂いがした。髪がきしむから中学生の頃から私だけ使わなくなったシャンプー。
自分の心臓が滅茶苦茶な強さで脈を打っているのがわかる。頭からつま先までぜんぶの骨が吉田を求めて激しくきしんでいた。

今も昔もその痛みのアウトラインを通してでしか私は、自分に心があることを確認することができない。それをどうやって吉田に伝えればいいのかわからない。伝えていいのかどうかすらもわからない。愛情と呼ぶにはあまりにも身勝手すぎる。
私の肩に顔をうずめたまま吉田が言う。

「すこし休んだら」
「うん」
「また東京に戻るんだね」
「うん」
「寂しくなるよ」

吉田はたぶん泣いていたんだと思う。

 


《九》

「植物っていいよねえ健気で」

隠し階段の上に丁寧に敷き直した人工芝と隣の芝生の境目を、まるで赤ん坊の頭を撫でるように優しく馴染ませながら吉田は言った。

「そうだね」
「まるであたしみたいだよね」
「あつかましいんだよ」

家の人に気付かれないようにヒソヒソ声で話しながら、裏口に向かって飛び石を踏んで歩く。

「あの赤松、あたしが整枝したの。よくない?」
「うん、かっこいい」

吉田は嬉しそうにニコッと笑う。

「カドワキ先生あの通りの人だからさ、お父さん...親方ともソリが合わなくて、おじいちゃん死んでからここ、ずっと放置されてたの」
「うん」
「女なんかに庭木触らせられるか!ってなるからもちろんあたしもダメだし」
「うん」
「それで先生亡くなってしばらくしてから奥さんが頼みにきたんだよね」
「そっかあ」
「で、親方がやってみろって言うからはじめて全工程仕切ったんだけど...死ぬかと思ったよ」
「うんうん」
「おじいちゃんの仕事再現するつもりだったんだけど...全体見るとやっぱ全然違うよね、全然だめだ」

手を定規みたいに顔の前にかざして何かの比率を測りながら吉田は言った。自分から仕事の話をしてくれるのはそれが初めてだった。
ふうっと息をつくと吉田は視線を上に向けて、次の言葉を探すみたいな、何かを数えるみたいな顔をした。
それで私には吉田が...意識してやっているのかはわからないけど...私を元気づけようとしてくれているんだということがわかった。

河川敷に吹く初夏の風、甘すぎるミルクコーヒー、トラックの助手席、ひみつの地下室、初めて作った吉田の庭...吉田の毎日をつくっているもの。
私がひどい顔をしているから、吉田の大好きなこの土地で、私に何か良いもの、輝かしいものをひとつでも見せてやりたいと思っているのがわかった。
まるで呼吸をするように自然とそうできるのが吉田という人間だった。

正直なところ私はずっと、吉田に対してねじくれた劣等感を抱いていたような気がする。子供の頃から人気者の吉田の隣にいると、自分がひどくみっともない生き物のように思えて気がふさいだ。吉田をこの土地から引き剥がすことで、それで対等になれると勘違いしていたんだと思う。それに吉田もなんとなく気づいていたんだと思うと、たまらなく恥ずかしい。
吉田にとって隆之との結婚は、私のエゴに潰されずに私を失わないでいる、たったひとつの方法だったのかもしれない。
吉田のような優しい女にそんな残酷な選択をさせてしまったことを思うと、自分が生きていることが心底虚しかった。

先に立って飛び石を飛んでいた吉田が目をキラキラさせながら振り返る。

「山本ならどんな仕事だってやれるよ。頭いいんだから」

あのね。そんなことないんだよ本当に。
自分で思ってたより頭も良くなかったしやりたいこともないし。そもそもなんにも好きじゃないんだよ、セックスくらいだよ。
あんたが買いかぶってるだけで、ほんっっっとにもうどうしようもないんだって。

だけど何も知らない吉田があまりに誇らしそうに目を細めるから、仕方なく鼻で笑うと震える声で

「あったりまえじゃん」

と言った。吉田は心底嬉しそうに頷く。

*

「ほらここんちにも南天あるんだよ」
「あほんとだ、葉っぱのかたちが」

私は植物にはまったく詳しくないけど、吉田が教えてくれた木や花の名前はだいたい覚えてる。

「あんたんちの庭の南天もなかなか味が出てきたよ」
「あー」
「今年は赤くなるとこ見に、帰っておいで」
「うん」
「実が落ちたら掃除大変だけどね、あたしやるから。だいじょぶだよ」
「うん」
「そういや山本、南天の花言葉知ってる?」

知っとるわ。一番最初に調べたわ。
私が押し黙っているとニヤニヤしてこっちの顔を覗きこんでくる。

「愛してるぞ山本お」

私はなにも言わなかった。
吉田を愛したいなあ、私はそう思っていた。

 


《十》

そして秋が来ると同時に私は東京に戻った。
私の弟と妹が暮らしている実家の庭では、丁寧に剪定された南天の木の葉がつやつやと光っている。