六月二十九日(金)の日記

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Twitterでまわってきた青空の写真。

ここしばらくの世事の乱れに危機感をおぼえた三十代男性。環境を変えるために全財産を持って成田に向かった、と書き添えられていた。
フォロー関係もない知らない人だし、そこまでに至る経緯も自分の人生とは重ならないけど、その写真と文を読んだ瞬間、滅茶苦茶にドキドキした。冒険が始まる、そう思った。
こういったダイナミックな行動にこそ、人間存在の機微みたいなものが集約されていると感じる。

‪仕事を辞める、恋人と別れる、部屋から出て飛行機に飛び乗る。はたから見ればあたりまえの行動に思えても、その人にとっては世界が載っているテーブルをひっくり返すような決断であるようなこと。
‪日々の流れの上ではなく、必要に迫られて何かを手放したり掴んだりすることで、個人の年表に新しい元号を切ること。‬
‪多くの場合それらの行動は、ある日突然降って湧いたような自暴自棄ではなく、その人の中に既にあった点と点が、何かをきっかけに繋がって線になったことに起因するんじゃないかと想像する。

‪ここで言う点というのは自分が今までの人生で獲得して心の中に留めている、宝箱みたいな要素のことだ。‬
‪たとえば愛された記憶だったり、苦労して取った資格だったり、日々の雑感だったり、仕事に関する知見だったり、一人で行った海だったり、格闘技の負け試合だったり、読んだ本の一節だったり、別れた人の最後の言葉だったり、好きな音楽だったり、忘れられない食事だったり‬、なんでもいいんだけど。
そういう遠いねじれた位置にあるはずのいくつかの点が、現実の出来事を通して電撃的に繋がるとき、人(私)はその点間に自分の成功の、あるいは失敗のビジョンを見る。

「俺はやれる」「今は無理だ」

停滞とは逆の方向に舵を切るかどうかを決めるのはいつも、成功するか否かのパーセンテージ計算ではなく、そういうドラマティックな直感であるような気がする。

ドラマというのは、その時点では役立つかわからない、無駄にも思える「点」を根気強く収集し日常に配置していくことで生まれるものであるような気がしている。そしてその電撃走る一瞬を見逃さず摑み取れる勇気があれば人間は、すくなくともドラマティックな一生を送ることができるはずだ。