七月三日(火)の日記

*
ニューアルバムをリリースした宇多田ヒカルさんが自身の音楽について語ったという言葉、とても印象的だ。
『時代や社会に向かって歌ったことはない。つねに部屋でひとりヘッドホンをつけてる誰かに向けて歌っている』
音楽もそうだし漫画も映画もサッカーの試合に至るまであらゆる表現が公の場でなされ、だけど私たちはいつでも個人の心と身体ひとつでそれを受けとめる。

つねづね表明していることだけど私はフィクション、特に漫画と小説が心の底から好きだ。読むのも好きだし、小説に関しては書くのも好き。
白い画面や紙に黒い線で絵や文字を描く、ただそれだけの方法で世界を再構築することは、世界中を飛びまわって秘境を探検することに劣らない、自由で冒険的な試みだと私は思う。

しばらく前に完結した漫画作品『恋は雨上がりのように』を読んだとき、これは人間が描いたものなんだ、人間はこういうものを描くことができるんだ!と衝撃を受けた。
私には昔から気に入った作品は何度も何度も読み返す習慣があるんだけど、この漫画に関してはしばらく読み返すことができないと思う。タイトルの文字列が頭の中に思い浮かんだだけで胸が詰まって泣いてしまうから。もちろんそんなこと初めてだし、尋常じゃない。

誰も死なず、セックスも暴力もなく、優しさと静けさと過去と夢と諦めと汗と太陽の光と雨だけが存在する世界で、ふたりの人間の人生と恋がまるで雨上がりのように不時着する、それだけの話。ただそれだけの話なのにどうして涙が出るんだろう?
その答えはすべて作品の中にある。だけどこうやって野暮な言及をせずにはいられない。

私は足を故障して陸上競技生活を断念した美少女だったことなんて一度もないし、頼りなさげに見えて胸に秘めた情熱を持つファミリーレストランの店長であったこともない。それなのに私は、この物語がまるで自分に読まれるために描かれたものであるように感じる。
かなりあやうい年齢差の男と女の姿形を借りてはいるけど、そういった男女間特有のテンプレートは使用されず、ただただ異なった性質をもつ二人の人間のあいだに漂う絶妙なムードがそこには描かれている。だからあらゆる立場にいる人にとって「これはある意味私のための物語かもしれない」という解釈が可能なんじゃないかと想像する。
それは「普遍性」と呼ばれるもので、どんな設定の奇抜さや物語の意外性よりも激しく人の心を打ちふるわす。

そういう作品に触れると私は、叫びだしたいような、今すぐ走りだしたいような心持ちになる。地面はやわらかく感じられるし身体は軽く空は高く感じられる。
自分もそういうものを書きたいと思う。いつだってひとりの人のためだけに書きたいと思う。